東海道五十三次の解説 14 原

東海道五十三次

吉原宿から原宿まで11.8km 北緯35度11分22秒 東経139度01分29秒

原宿は、東海道五十三次の13番目の宿場です。
現在の静岡県沼津市になります。

宿場として整備される以前は浮島ヶ原と呼ばれていました。
木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた。

宿場は江戸方から大塚町・東町・西町からなっています。
1838年には脇本陣が焼失しました。
1841年時点では本陣1軒、脇本陣1軒、家数387軒、人口1777人でした。
1843年の時点で本陣1軒、旅籠屋は25軒でした。
問屋場は東町と西町の2か所にあり、半月交代で使用されていました。
やがて東町の問屋場は焼失しました。
東海道五十三次の中で一番地味な宿場です。
沼津宿に近く休息場所としての利用がほとんどでした。

千本松原沿いに伸びる旧国道1号線は、かつて駿河に進出した武田信玄が駿河湾で作った塩を運ばせた時に自然発生的に出来た塩道で、甲州街道と呼ばれていました。
その甲州街道が1時東海道になっていた時もありました。
原宿は北側に浮島沼が広がっており、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあります。
美しい松原と、どこからも見える富士の眺めに恵まれた気候温暖で風光明媚な土地柄です。

浮島沼とは、湿地帯に存在した沼群の総称です。
南東の低地がかつての浮島ヶ原の湿地帯です。。
富士市の須津地区を中心として、浮島地区や沼津市の原地区にわたる湿地に大小の沼が点在しております。
これらを総称して浮島沼と呼んでいます。
柏原沼、須津沼、富士沼、大沼、広沼などとも呼ばれていました。
沼の周囲には浮島ヶ原と呼ばれる、湿田やヨシ、マコモが茂る低湿地帯が広がっています。

現在では治水事業により一般的な水田となりました。
年々、宅地や商業地、工場用地として開発が進みました。
水田も徐々に減っています。
地盤が脆弱であるため、東海道新幹線や東名高速道路は浮島沼を避け、愛鷹山の裾野に建設されました。

①「保永堂版」
浮島ヶ原のあたりで富士山の偉容が中心に描いています。
副題は「朝の富士」です。
富士山が画面の枠を破り欄外に描かれています。
朝日に白雪は紅色に染まり、遠い西の空は藍色に晴れています。

2人の女性とお供の男性です。
2人の女性はその偉容に思わず足を止めています。

冬枯れの田んぼで2羽の白鷺が餌をつついています。
朝寒むの街道のあたりの沼地には白鷺がおりていて冷さを感じます

②「行書版」
 浮島ヶ原のあたりで富士山をすっきりと描いています
 保永堂版と同じく、富士山が画面の枠を破り欄外に描かれています。

③「隷書版」
 富士山を中央に配置し、山の稜線は直線で裾野の広がりを強調しています。
 さすがに今回は富士山は欄外にはみ出していません。
 
④「北斎版」
浮島ヶ原のあたり風景に妙な異人の一行を描いています。

⑤「旅画像」
 JR原駅です。

⑥「スタンプ画像」
 JR原駅のスタンプです。

保永堂版 

行書版 

隷書版  

北斎版 

旅画像 

スタンプ画像


  

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