箱根宿から小田原宿まで16.6km 北緯35度14分55.4秒 東経139度9分39.7秒
小田原宿は、東海道五十三次の9番目の宿場です。
小田原市は、神奈川県の西部になります。
関東地方の南西端に位置し、戦国時代には後北条氏の城下町として栄えました。
北条早雲から北条氏直まで北条五代の隆盛を影で支えたという風魔忍者の里です。
宿は本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒、人口5,404人 家の数1,542軒です。
江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が置かれ、その城下町となりました。
1686年以降は代々大久保氏の城下町となりました。
小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模でした。
小田原郊外の栢山(かやま)は、農政家・二宮尊徳の生地として有名です。
小田原城は、平山んの城です。
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていました。
居館は北条氏以前の大森氏以来のものです。
大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されています。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれました。
上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。
江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭となりました。
近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭です。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものです。
1614年、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させています。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏です。
小田原城は、江戸時代を通して1633年と1703年の2度も大地震に遭いました。
元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。
天守が再建されたのは1706年で、この再建天守は明治に解体されました。
二宮 尊徳は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。
自筆文書では金治郎と署名しています。
一般には「金次郎」と表記されています。
経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。
現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)に、百姓の長男として生まれました。
風摩 小太郎は、相模国足柄下郡出身です。
風魔一族ないし風魔忍者を率いて代々後北条氏に仕えた乱波の首領です。
北条氏滅亡後は江戸へ上り、盗賊になったとされています。
小田原の名産品はかまぼこです。
相模湾が近く魚がよく獲れたことと、箱根丹沢山系を水源とするミネラル豊富な水に恵まれたことです。
東海道の宿場町という多くの人々が行き交う場所でした。
関西地方で主流の焼きかまぼことは違います。
江戸好みの蒸しかまぼこが小田原の名物として全国に知られるようになりました。
①「保永堂版」
酒匂川の渡河風景です。
後ろの山は箱根の山です。
駕篭を蓮台にのせ、大勢の人足が任ぎ渡っています。
裸の川人足が川の向こうにたむろしています。
山のふもとに小田原城とその城下の町並みが描かれています。
酒匂川は幕府の政策により架橋や渡船が禁止されていました。
川越し人足による徒渡しによって渡る方法しかありませんでした。
②「行書版」
酒匂川の渡河風景です。
やや高い視点から描いています。
後ろの箱根の山は単調な表現です。
③「隷書版」
酒匂川の渡河風景です。
渡河風景が近くから描かれています。
後ろの箱根の山が低く感じられます。
④「北斎版」
酒匂川の脇の休憩所での風景です。
⑤「旅画像」
小伊勢屋の看板です。
創業四百有余 料理茶屋 小伊勢屋です。
残念ですが2015年8月に閉店しました。
⑥「スタンプ画像」
小田原駅のスタンプです。
保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

旅画像

スタンプ画像

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