藤沢宿から戸塚宿まで7.9km 北緯35度23分42.1秒 東経139度31分47.5秒
戸塚宿は、東海道五十三次の5番目の宿場です。
隣の宿である藤沢、保土ケ谷の宿が1601年に成立して3年後に宿場になりました。
戸塚宿は、起点の日本橋から数えて5番目の宿場町です。
日本橋から42kmの距離になります。
朝に江戸を発った当時の旅人の1番目の宿泊地として最適でした。
鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
保土ヶ谷宿の次は藤沢宿でしたが、戸塚にも宿屋が増えました。
客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認の宿場となました。
戸塚区内の旧東海道は南北方向にまたがり、全長約11.7kmありました。
その中で戸塚宿は、江戸方見附跡と上方見附跡の2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、今も戸塚区の中心地として賑わっています。
吉田町、戸塚町、矢部町の3町からなります。
見附は、現在の吉田町イオン前と戸塚町大坂下にあり、品濃町と原宿町に一里塚がります。
大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝でした。
幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきました。
宿場は1843年本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠75軒、家の数613軒、人口2906人の宿場です。
吉田町、戸塚町、矢部町の三町で構成されています。
澤邉本陣跡には屋敷神であった羽黒神社があります。
内田本陣跡は戸塚郵便局になっています。
見附は、現在の吉田町イオン前と戸塚町大坂下(バス停前)にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残ります。
大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝でした。
幕末の黒船来航時には、避難民が逃げてきたといわれています。
「いざ鎌倉」は、緊急事態に際して“やってやるぞ”などと発奮した時に使われる慣用句です。
鎌倉時代、幕府に一大事があれば“いざ鎌倉に馳せ参じよう”との心意気を武士たちが抱いていました。
鉢の木物語(佐野市)の要約です。
今から七百年ほどの昔です。
雪の降る道を一人の旅の僧が山本の里(現在の佐野市)を歩いていました。
この旅の僧こそ、鎌倉幕府の執権の北條時頼が身をやつした姿だったのです。
やがて僧は、貧しそうな一軒の農家を見つけました。
二人暮らしの貧しい家で、その日その日の暮らしにも困っている夫婦でした。
夜も更けるにしたがって、薪もなくなりいろりの火もとだえがちです。
主人は、鉢植えの木を持ってきて、斧を振り上げました。
見ず知らずの旅の僧に心温まるもてなしをしてあげたのでした。
この主人は、鎌倉殿に何か起きればだれよりも早く鎌倉に駆けつけるという心構えでした。
年が明けて春、鎌倉の一大事にいち早く駆けつけたこの武士に時頼は褒美あげました。
実は「鉢の木」に「いざ鎌倉」という文言は出いません。
戸塚宿にちなむ川柳「佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」は鉢の木物語のパロディです。
「いざ鎌倉」と馳せ参じた老馬が鎌倉目前の戸塚で転んだ、という意味です。
①「保永堂版」
粕尾川の吉田橋の風景です。
橋のたもとに「左かまくら道」との道標が立っています。
左に「こめや」の大きな看板のかかる旅籠があります。
旅籠の軒下に札が掛かっています。
「大山講中」「月島講中」「百味講中」「神田講中」「京橋講中」「大々講中」
この講中札は安心して宿泊できる目印です。
この宿は、飯盛女がいないので、女、子供、老人は安心して宿泊できます。
②「行書版」
戸塚宿を少し過ぎた八丁並木の風景です。
坂のしたに宿場の屋根が見えます。
馬や駕籠の旅を表現しています。
中央に向かって延びる松の木が印象的です。
③「隷書版」
戸塚宿を少し過ぎた八丁並木の風景です。
右に富士山が半部見えます。
旅人の様子を表現しています。
④「北斎版」
旅籠の朝の風景です。
背景に高徳院の鎌倉大仏を表現しています。
しかし、大仏が大きすぎる様に感じます。
また、大仏までの距離が13km離れています。
⑤「旅画像」
宿泊したホテルです。
⑥「スタンプ画像」
JR戸塚駅のスタンプです。
保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

旅画像

スタンプ画像

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