東海道五十三次の解説 9 大磯

東海道五十三次

小田原宿から大磯宿まで15.7km 北緯35度18分32.4秒 東経139度18分55.1秒 

大磯宿は、東海道五十三次の8番目の宿場です。
現在の神奈川県中郡大磯町になります。
東海道に宿駅伝馬制度ができると、神奈川、保土ケ谷、藤沢、平塚、小田原などと並んで最初に設置された宿場です。
江戸寄りの平塚宿との間はわずか2.9㎞と短く、一方、小田原宿とは、15.7kmと長く、その間に徒歩渡しの酒匂川がありました。
南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで、宿場は寂れた宿場です。

その主な理由は、江戸からの旅人は翌日の箱根越えに備え小田原にまで足を伸ばしてしまいます。
箱根を下ってきた人は、酒匂川の渡しを前に、その疲れを休めるために小田原に宿泊します。

 宿内の家並みは、長さ1.3㎞、江戸方より街道に沿って、山王町・神明町・北本町・南本町・茶屋町(石船町)・南台町の6町で構成されています。
宿は江戸後期本陣3軒、脇本陣6軒、旅龍66軒、人口は3056人、家の数は676軒です。
本陣と旅龍は北本町・南本町・茶屋町に集中しました。
 
問屋場は北本町、南本町に1カ所ずつありました。
地福寺の門前通りを境として北組と南組に分かれています。
それぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ交互に役を勤めていました。

江戸方見付は化粧坂と山王町の間、上方見付は鴫立庵を過ぎてしばらく行った地点にありました。

吉田茂は首相退陣後、大磯にて隠棲生活を送りました。
晩年も政界への影響力を保持していた為、「大磯」は吉田茂を示す別称(政界用語)でありました。
国内外の要人来訪も相次いでいました。
吉田没後も1979年の日米首脳会談の会場となりました。
2009年に火災により全焼したが、寄付金により再建されました。
2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開されています。

①「保永堂版」

 大磯宿の入口と湘南の海に雨が降る景色を描いています。
 右側に見える山は高麗山です。。
 高麗山には『曽我物語』の曽我十郎と恋仲であった虎御前の草庵がありました。
「虎ヶ雨」とは虎御前が十郎を偲び流した涙をいいます。
 十郎が討死した陰暦5月28日に降る雨のことです。
 左右に立て分けて描いています。
 左側に遠く臨む静かな湘南の海を描いています。
 右側に立ち並ぶ宿場町の店が重なりあっています。
 折れ曲がった樹木の並びで宿場の様子を描いています。 

②「行書版」
 松並木の後方に湘南の海が見えます。
 弓、鉄砲を担いだ5人の武士がいます。
 歩きながら煙草を吸うもの、話かけるものなどがいてのどかな雰囲気です。

③「隷書版」
 右の茶屋で休む旅人と湘南の海を眺めている旅人がいます。

④「北斎版」
 虎子石が描かれています。
 虎子石とは、「曽我物語」に出てくる遊女の大磯の虎が大事にしていた石のなまえです。
 
⑤「旅画像」
 大磯駅です。

⑥「スタンプ画像」
 大磯駅のスタンプです。

保永堂版 

行書版 

隷書版 

北斎版 

旅画像 

スタンプ画像


  

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