東海道五十三次の解説 19 江尻

東海道五十三次

府中宿から江尻宿まで10.6km 北緯35度01分10.0秒 東経138度28分56.0秒

江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場です。
現在の静岡県静岡市清水区の中心部になります。

宿は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒、戸数1,340軒、人口6,498人、宿の町並み長さ約1420mの宿場です。

駿河湾に注ぐ巴川の河口付近に発達した宿場町です。
江戸時代以前の戦国時代には、武田氏の家臣馬場信春により江尻城が築かれ、城下町として栄えました。
清水港に近く、江戸時代には江戸への物流拠点となりました。

清水港は駿河湾奥・折戸湾に臨む天然の良港です。
清水港を中心に古くから海運の中継地や水軍の基地として発展しました。
近代以降は茶の輸出が始まり国際的な貿易港となりました。
特定重要港湾の指定を受け、清水港臨海地区には多くの企業や工場が立地し、高度経済成長期に大きく成長しました。
Jリーグのサッカークラブの清水エスパルスのホームタウンです。

三保の松原は2013年に富士山世界文化遺産に登録されました。
三保松原は約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂ります。
松林の緑、打ち寄せる白波、海の青さと富士山が織りなす風景は歌川広重の浮世絵や数々の絵画・和歌に表現されています。

清水次郎長ゆかりの地です。
次郎長の生家や菩提寺(梅蔭禅寺)、次郎長の船宿「末廣」などが残ります。

清水次郎長(1820年2月14日- 1893年6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家です。
本名は山本長五郎です。
米問屋の養子でした。養家が没落したことで博徒になり、やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもちました。
戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体収容し丁重に葬りました。
次郎長のこの義侠心に深く感動した幕臣の山岡鉄舟と知り合いました。
旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍しました。

①「保永堂版」
 清水港の風景です。
 中央手前には三保の松原が見えます。
 遠方には愛鷹山の山並みが見えます。
 愛鷹山の先には伊豆半島が続くはずですが省略されています。
 大小無数の帆船で大きな港であることがわかります。

②「行書版」
 雪が降りやんだ朝の風景です。
 副題に清水の湊遠望とありますが、清水港は表れていません。
 遠景に三保の松原が見えます。

③「隷書版」
 三保崎からの風景です。
 白帆の船を手前に富士山を大きき表現しています。

④「北斎版」
 府中へ客を送った帰りの馬喰と思われます。

⑤「旅画像」
 JR清水駅のイベントの看板です。

⑥「スタンプ画像」
 JR清水駅のスタンプです。

保永堂版 

行書版 

隷書版 

北斎版 

旅画像 

 スタンプ画像

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