蒲原宿から吉原宿まで11.2km 北緯35度9分46秒 東経138度41分8.3秒
吉原宿は、東海道五十三次の14番目の宿場です。
現在の静岡県富士市になります。
陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても機能しました。
宿は、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠60軒、人口2832人、家数653軒の宿場です。
江戸時代に宿場が設置されたときは現在の元吉原あたりにありましたが、津波などで移転しました。
吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にありました。
1639年の高潮により壊滅的な被害を受けました。
再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転しました。
このため原宿 – 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になりました。
江戸から京に向かった場合に右手に見えていた富士山が左手に見えることから、”左富士”と呼ばれる景勝地となりました。
原宿から吉原宿まで約12.4kmです。途中の立場の茶店で名物の蒲焼を食べることができました。
吉原宿と蒲原宿の間にある立場の白酒は人気がありました。
白酒は焼酎またはみりんに蒸した糯米、麹を加えて熟成させて、これをすりつぶし造ります。
アルコール分は8~9%。山川酒ともいわれまし。
甘口で一般の清酒よりアルコール分は少ないので雛祭りのお酒として江戸時代に盛んに飲まれました。
宿場の宿で飲む寝酒に最適です。
駿河半紙の生産地から、今は近代製紙業の町になりました。
富士川や富士山の伏流水などの水資源が豊富でした。
江戸時代の中ごろから、駿河国ではミツマタの木の皮を原料にした紙漉(かみすき)が盛んになりました。
この紙はしなやかで墨つきがよく、書道用紙や木版用紙として庶民にも広く用いられました。
江戸の町へたくさん出荷されるようになりました。
そこで、駿河国の紙は駿河ものとか駿河半紙と呼ばれました。
駿河半紙の産地として、主に興津川流域や芝川流域が知られています。
富士郡原村(現富士宮市原)では、渡辺兵左衛門定賢が、ミツマタを原料にした紙を漉きはじめ、村をあげて生産に取り組くみました。
また、近くの村々にも広がり、駿河半紙の産地となりました。
明治時代になって、渡辺定賢の子孫である渡辺登三郎は、駿河半紙の発展のために、ミツマタ栽培や植林事業を進めました。また、製紙工場の設立にもかかわり、郷土の発展に尽つくしました。
加えて大消費地の首都圏に近い地の利を生かして最盛期の1991年には旧富士川町を含まない旧富士市内だけで6035億円の出荷額を誇る製紙の街として栄えました。
大昭和製紙本社工場(現・日本製紙富士工場鈴川事業所)や王子マテリア(旧・王子製紙)などの多数の製紙工場が活発に生産を行っていました。
しかし、2009年2月に王子製紙富士工場の製紙ラインの一部が操業停止となりました。
「パルプや紙」の事業所数は275から224に減少が進みました。
2011年の製紙業の出荷額は4407億円へ落ち込んでいます。
2012年9月末には日本製紙富士工場鈴川事業所(旧大昭和製紙本社工場)での紙生産が全面的に停止となりました。
製紙業の衰退、製紙やパルプの生産減少傾向が続いています。
①「保永堂版」
「左富士」と呼ばれれる構図です。
元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができます。
「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所です。
馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき夢中に見つめています。
右の子どもは居眠りしている様で、頭を右に垂れて下を向いています。
松の並木が迫り来るような様がとても狭い街道を表現しています。
②「行書版」
元吉原から吉原へ向かう街道は左富士しか題材がないので、名物山川しろ酒を描いています。
名物山川しろ酒の看板の立場の茶屋で旅人が休憩しています。
控え目に富士山を左端に描いています。
③「隷書版」
松並木で馬に乗る女の道中姿を描いています。
控え目な富士山を中央に描いています。
④「北斎版」
田舎の豆をひいている風景を描いています。
⑤「旅画像」
岳南電車線 吉原本町駅です。
⑥「スタンプ画像」
JR吉原駅のスタンプです。
保永堂版
行書版
隷書版
北斎版
旅画像
スタンプ画像
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